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Albert B. Simpson, 1843-1919

『教会福音讃美歌』掲載曲

作詞:41番「心にあふれる喜びは」
作詞:412番「主とともに歩む」

作曲:326番「主イェスよ、私ではなく」
作曲:412番「主とともに歩む」


Albert Benjamin Simpson (1843-1919)

誕生:1843年12月15日、カナダ、プリンス・エドワード島、ベイビュー。
死亡:1919年10月29日、ニューヨーク州ナイアック。
埋葬地:ニューヨークのナイアック大学。

AlbertはJames Simpson, Jr.とJanet Clarkの第4子、三男。

Albertの家庭の厳しい、カルビン主義的なスコットランド長老教会と清教徒の背景が、彼の霊的な見方を形成している。それは若い頃、医者の忠告に関して、自分が分かるまで追求した、ということにも表れている。Albertはまた、疑いもなく、キリスト教の古典と同様に当時の霊的な伝統にも造詣が深かった。彼がMarshallの『Gospel Mystery of Salvation』(1692)を読んでいたことは知られており、それによってその15歳の青年に、クリスチャンの救いと聖化についてのバランスの取れた理解をもたらした。

Simpsonの宣教熱に影響を与えた一人はJohn Geddie師であろう。1847年、Geddieは南太平洋のニュー・ヘブリデス島(現在のバヌアツ)に宣教師として行き、報告によれば、彼の宣教活動によって島中の人がクリスチャンになったという。プリンス・エドワード島のGeddieの記念碑には「1848年に彼が到着した時には一人のクリスチャンもいなかった。1872年に彼が去ったときには、一人の未信者もいなかった。」と書かれている。

高校を卒業するとAlbertは、トロントのノックス・カレッジに入学する学費を稼ぐためにしばらく教員をしていた。21歳の時に彼は卒業し、2つの教会からの招きを受けた。一つは地方の小さな会衆から、そしてもう一つはオンタリオ州ハミルトンの大きなノックス長老教会からであった。彼は招きの二つの間で苦悩し、最後に、彼が神に最大限に用いられるようにとノックス長老教会を選んだ。「8年の奉仕は成果を上げ、750人の新たな会員を加えることになり、彼は雄弁さと能力、成果において他に比べる者はないと言われた。」(A. E. Thompson著『A. B. Simpson, His Life and Work』、Christian Publications)。

1873年12月、Simpsonはケンタッキー州ルイビルの最大の長老教会であるチェスナット街長老教会の講壇に招かれた。そこで町ぐるみの伝道の働きに加わり、彼は自分自身のさらに活発な伝道奉仕に目が開かれた。Simpsonの父親から甥に当てられた1877年の手紙に、二人の息子、HowardとAlbertについての記述がある。

「君の希望なので、私の家族について簡単に記す。私の二人の上の息子たちは、知っての通り福音の宣教者である。Howardはインドのマジソン市に、そしてAlbertはケンタッキー州ルイビルにいる。二人ともその世界においてはよく用いられていると思う……和足は彼らが共に忠実に働き、成功すると信じている。Albertは激しい働きのために自分を殺しており、人口15万人の町のいたるところに、3万人の、教会に行っていない人々のための宣教の拠点を作っている。彼自身の会衆も、彼がそこに行ってから3年の間に倍に増えた。

5年間のルイビルでの奉仕が頂点に達したころ、Albertはニューヨークの13番街長老教会を牧会するように招かれた。彼はそこで移民者たちの大衆に引き寄せられ、実際、彼の戸口に宣教地を見出した。100人ほどのイタリアからの移民をキリストに導くと、彼の会衆は彼に、別の教会を見つけるようにと言った。そこでSimpsonは、神は彼を別の奉仕に召しておられる、と決心してそこを去り、ニューヨークの大衆への奉仕を開始した。

神のSimpsonの生涯への召しは、結果的に二重のヴィジョンとなった。第一はキリストの十全性を語るメッセージであり、その教理におけるキリストの中心性は彼の聖書的説教にあった。それが彼の言う「四重の福音——我らのイエス・キリストが救い主、潔め主、癒し主、そして来るべき王」である。Simpsonはこの「四重の福音」という用語を聖霊の導きによって1890年のニューヨーク・ゴスペル・タバナクルの聖会の開会で提案した。この公式はアッセンブリーとフォー・スクエアの諸教会で採用された。第二は、失われ、滅びていく世界へのヴィジョンであり、このことで彼の最初の宣教チームがコンゴに送られた。Simpsonの信条と作戦は、聖霊に満たされ、キリストらしく生きる人々は活動的なしもべとなる、ということだった。これらの双子のヴィジョンはキリスト中心の彼のメッセージを深め、彼の一教会の働きの延長が今日のChristian and Missionary Alliance (CAMA)となっている。

彼はキリスト教会に、教会の働きが単に気の合う者たちが週に一度集まって、知的な話に耳を傾け、音楽を楽しみ、クリスチャンの働きのメカニズムを伝達していく、ということではなく、キリストが失われ、傷ついた人々のところにおいでになったように、教会が彼らの母となり、同時に助けと恵みの家となること、すなわち彼らの誕生の地、魂の家、癒し、潔める泉、孤児や抑圧された人々の隠れ家、文化の学校、神の子の訓練の場、主の戦いのために武装する武器庫、主の名によって戦う軍隊となるような場所であることを示した。このような悲しい、罪深い世界の中にある人々の中心で!
『A Larger Christian Life, Albert Simpson』より。

また別の機会に、Simpsonは同じような響きでこう書いている。

「我々は神の働きの全てを、キリストの教会という領域の中の目的としなければならない。教会の中には礼拝のため、聖なる真理の教えのため、失われた人々への福音宣教のため、というだけでなく、あらゆる実際的な博愛と有用な働きのための部屋がある。それらは神の教会が単純な命令と尊厳を完全に守る中で、大衆に最も積極的に届く働きであり、あらゆる罪人に対する最も広い歓迎であり、病人に癒やしを与え、苦しむ人々にキリストの名によって仕えることであり、最も完全な慈善活動である。労働の訓練、低層の人々の社会的向上、失業者のための職業訓練、孤児たちの住む家、家のない人々の逃れ場、未信者への伝道、そしてすべては神の教会が世の光、傷つき、失われた者の母となるために必要とされている機能である。そしてこのような特徴と完全さを有している教会ほどに神に栄光を帰するものはない。願わくは主が、このヴィジョンを実現し、整えられた花嫁とその多くの子どもたちのために来られる主の恵みの再臨の時にそこにいられるように。」

しかし、これらの言葉にあるような社会的な興味と同様、Simpsonは福音宣教の深い熱意をもはぐくみ、自分の後の続く初期の人々に、次のように語っている。

「生ける人々、全ての人が救いの機会を得るために、そしてキリストの花嫁が全ての国々から、民族から、言語から集められ、異邦人たちの時が満ち、そのようにして主の来臨の備えが完成するように。」

彼の力強い賛美歌「The Missionary Cry」にはこう歌われている。

主の来臨は近い
人の子はすぐに顕れる
彼の御国は間近い
しかしその栄光の日の前に
御国の福音は
我々が全ての地に伝えねばならない。

CAMAの誕生については、Simpsonは教団を作ることではなく、福音宣教の道具を作ることを求めていた。彼は自分の宣教団体が、主の再臨を早める道と考えていた。ゆえに彼の「平等で、公正で、迅速に」福音が地上の全ての人に届くようにとの叫びであった。それから終わりが来て、王がそれを受けられる。よく引用される逸話で、New York Journal誌の記者の記事は、彼が再臨と、どのようにしてかそれを早めたいという期待を表している。

記者はSimpson博士に、「あなたは主がいつお出でになるかご存知ですか?」と尋ねた。

「ええ、もしもあなたが私の言った通り、引用も含めて全部書いてくれると約束してくれるなら言いますよ。」と彼は答えた。

記者は、筆記を止め、約束を果たす準備をした。

「ではこう書き給え。『御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。』マタイ24章24節。引照もきちんと書いたかね?」

「はい。それから?」

「それで全部だ。」

記者は鉛筆を下ろして言った。「あなたは、福音が全ての国々に伝えられた時にイエスが戻って来られる、と信じている、ということですか?」

「その通り。」

「私には日の出が見え始めているように思います。」と記者は答えた。「私はこの運動のモチベーションと、その力が見えるように思います。」

それからSimpsonは言った。「あなたには、ある神学博士たちよりももっと多くが見えているようだね。」

この失われた者を探し求めるスピリットは、その同盟を世界宣教の指導的な立場に駆り立てた。福音宣教が主の再臨を早めるという信仰は、その熱意に火をつけた。早い時期にその熱意は全国の、そして地方の教会のレベルの指導者たちを巻き込んだ。Simpsonが生きている間、この運動の目的と行動を、彼の運動として把握していた。1919年の彼の死以降は、CAMAは個人的な働きによって形成された運動から、宣教団体へと変わって行った。多くの人は、一つのヴィジョンによる運動から、多角的なヴィジョンを持つ教会の組織になっていったことを嘆いた。しかし、多くの似たような教団教派の働きのルーツは、Simpson個人の多角的なヴィジョンによるニューヨーク市へのアプローチにあると言える。霊的な刷新と病者への祈りに焦点を当てた癒しの家は、現代の老人ホームや引退後のセンターの短期版となっている。彼の高校から大学への教育制度の拡大のヴィジョンは、明らかにアメリカとカナダのCAMAの5つの大学と2つの神学校の前身となっている。今やアメリカでは、日曜礼拝の25%が19の言語を話す多民族礼拝がある事実は、彼の心を喜びに踊らせていることだろう。疑いもなくCAMAの奉仕は、多くの国々でSimpsonの一地方教会でのヴィジョンと同じ鼓動で、広がっている働きである。CAMAのリーダーシップによる驚くべき軍属牧師(チャプレン)の働きは、アメリカ全軍隊の小さな教派への期待をはるかに凌駕するものである。CAMAによる1億ドルに近い教会への貸付金は、アメリカにおける同盟教会のより新しい、より強い発展のための投資となっている。参加者が6千人を超える3年に一度の青年大会は、若者たちの心を福音宣教に向け、より深い生活への挑戦を与え、クリスチャンの働きへの招きに、またその奉仕者の補充に資している。彼が言ったように、「教会の中には礼拝のため、聖なる真理の教えのため、失われた人々への福音宣教のため、というだけでなく、あらゆる実際的な博愛と有用な働きのための部屋がある」のである。

参考資料:
Findagrave、2018年2月16日現在。
ウィキペディア、2017年1月14日現在。

作詞作品:
Abiding and Confiding
Balm in Gilead
Blessed Be the Glorious Tidings
Burn On!
Christ in Me
Days of Heaven
Down in the Valley
Everlasting Arms, The
God's Best for Me
Healing in Jesus
Himself
I Take--He Undertakes
I Will Say Yes to Jesus
I'm Living in Heaven Today
Jesus Only Is Our Message
Living in the Glory
Mercy of God Is an Ocean Divine, The
Missionary Cry, A
Nothing Is Too Hard for Jesus
O Comforter, Gentle and Tender
Oh, It Is So Sweet to Die with Christ
Regions Beyond, The
Search Me, O God
Sinner Saved by Grace, A
Some Sweet Morn
Star of Hope
Step by Step
There Is Joy in Heaven
Thy Kingdom Come
Yesterday, Today, Forever
What Will You Do with Jesus?

作曲作品:
Not I, but Christ